導く
「声をかけること」の大切さを感じている。
例えば、チャイム着席。
できていないと、今までは「チャイムが鳴ったら座っているのは当たり前なのに、なんでできていないんだ。気付いてるはずだろ」と不機嫌になっていた。
そう思うなら、「チャイムなるよ。座ろ」と声を掛ければいい。
例えば、ゴミ拾い。
落ちているゴミを拾わずにスルーする。「気付いているはずだよね。自分の教室なんだから、拾うべきじゃない?」と不機嫌になった。
そう思うなら、自分が拾えばいい。
例えば、食後のごちそうさまの挨拶。
ちゃんと声が聞こえてこないと、「ごちそうさまも言えないのか。全員がちゃんと声を出していうべきだろ」と不機嫌になっていた。
そう思うなら、挨拶の前に「ちゃんとみんなで言おうね」と一言言えばいい。
今考えても最低なんだけど、その時は「こうするべき」とか「こうあるべき」とかが優先されていて、自分の中の価値観を押し付けていただけだった。
「今、〇〇さんはどんな気持ちなんだろう」とか「友達との会話に夢中になってたんだな」とか「確かにめんどくさいよね」とか、相手(児童)の気持ちを想像することが全然できていなかった。つまり、偉そうだった。
「先生」や「大人」として、正しいことは正しいのかもしれないけど、それを「教師」らしく導くことはしていなかった。
今はあまりないんだけど、いまいち精神状態や体調が良くない時は、こんなモードに入りやすくなることがある。子どもたちに失礼だし、かわいそうなことになっちゃうから気をつけている。このモードになりそうな時は、一度落ち着こう。深呼吸をしよう。「〜するべき」ってやつができていないとしても、大したことないじゃん。時間をかけて、声をかけて、姿で見せて、価値づけて、いずれ少しずつできていけばいい。一人でも二人でも。そうやって即効性を求めずに漢方薬のようにじわじわいけばいい。
アドラー式に言えば「課題の分離」ってやつかな。人(児童)の領域に自分が入っていくことはできない。自分ができることを純粋にやるだけでいい。
とにかく声をかける。いや、かけるかけないの見極めをプロらしくやればいい。怒る必要はない。ただ、声をかける。姿で見せる。
「窓を開けよう」
「おはようございます」
「ありがとう」
「誰か配ってくれる人」
「うがい手洗いした?」
「あ、放送流れるよ」
「もう片付けよう」
「目と目を合わせます」
一緒に掃除をする。
時間で始めて時間で終わる。(ちょっぴり早く終わる)
放課後一人で教室を掃除する。
ゆとりがある人に子どもは寄ってくる。
安全な人には近づきたくなる。
マズローの五段階欲求の最初のやつだ。
怖がらせる必要はない。
ただ、教える。
それで十分。
それができないのは、相手(児童)を信じていないからだ。
自分を信じていないから。
言っても大丈夫。
わかってくれる。
すぐには効果が出なくても、ちゃんと伝えることが大事。
淡々と自分ができることをやる。
そうやって、相手が変わってきたら一緒に喜ぼう。
よし、まとまった。
今日もアウトプットできました。
ありがとうございました。